Domaine de la Romanee-Conti
ロマネ・コンティ。わずか1.8haー
このハンカチ1枚ほどにすぎない小さな葡萄畑に、2000年をこえる、ワインづくりの夢が宿っている。
王冠と、それを囲む宝石たち
コート・ド・ニュイの中心に位置し、しばしば「ニュイの真珠」とたたえられるヴォーヌ・ロマネ村。この村には6つのグラン・クリュ畑があり、そのすべてがブルゴーニュきっての極上品として覇を競いあっています。力強さと複雑さのら・ターシュ、華やぎのリシュブール、堂々たる骨格のラ・ロマネ、繊細さの極みともいうべきロマネ・サン・ヴィヴァン、そして1992年にグラン・クリュに昇格したグランド・リュ・・・。ロマネ・コンティは、この5つの宝石に東西南北を取り囲まれるようにして、まさにその中心に君臨しています。ロマネ・コンティだけが、これら5つの宝石のすべての美質をあわせもっているのです。堂々たる骨格をもったロマネ・サン・ヴィヴァンは存在しませんが、ロマネ・コンティにはそれがあります。リシュブールの華やぎをもつラ・ロマネは存在しませんが、ロマネ・コンティにはリシュブールに優るとも劣らぬ華やぎがあります。ロマネ・コンティは文字どおり中心であり、すべてなのです。
2000年間、葡萄の根が耕し続けた土
ロマネ・コンティの畑の歴史は、ローマ時代にまでさかのぼります。ローマ人による統治と葡萄栽培への感謝から、この村の極上の畑に「ロマネ」の名が贈られたのです。以来2000年にわたり、この畑には葡萄が栽培され続けてきました。有機栽培では「根が耕す」ということがよく言われます。人の手で耕すことのできるのはせいぜい深さ50〜60cmどまりですが、葡萄の樹は10m以上の深さまで根を張りめぐらせます。その根が土を耕し、数十年もたつと土の組成そのものが変わってしまうのです。ロマネ・コンティの畑は、まさにそうした「根による耕作」を2000年以上にもわたって続けてきた特別な土地。かつてローマ人が目をつけた優れた土壌と微気候を、幾十世代にわたる葡萄栽培家たちの手が、完璧なものにつくり変えたのです。いわばこの土地には、時間の魔法がかけられているのです。
神話の誕生
ロマネ・コンティのワインは、つねに垂涎の的でした。10世紀初頭以来、この畑はサン・ヴィヴァン修道院のもとで耕され、18世紀初頭には、ルイ14世の侍医が持病の治療薬として毎日スプーン一杯のロマネ・コンティを処方しました。ルイ15世時代、葡萄畑の所有をめぐってポンパドール夫人と、ブルボン王朝の名族コンティ公爵の間で争奪合戦が行われました。1760年、この勝負はコンティ公爵の側に軍配があがり、腹を立てたポンパドール夫人は、以後ヴェルサイユの宴席からブルゴーニュワインを締め出した、とも伝えられています。
一方コンティ公爵は、この葡萄園のワインをすべて自家用に切りかえ、市場から引きあげてしまいました。以後このワインは、コンティ公宮殿でしか味わえない特別な酒となったのです。ロマネ・コンティの名はここに生まれたのでした。コンティ公爵が芸術文化の世界の最大のパトロンだったことも、このワインの名声を一層高める一因となったでしょう。ざっと名を挙げただけでも、哲学者のルソー、百科全書のディドロ、劇作家ボーマルシェらがコンティ公爵家に出入りしており、あのモーツァルトもパリを訪れた際には公爵家で演奏しているのです。
こうして1789年、フランス革命で貴族の荘園がすべて没収され、あらゆる「旧体制」が否定された際にも、「ロマネ・コンティ」の名前だけは敬意とともに残されることになったのです。革命後、ブルゴーニュの多くの畑は競売と遺産相続で細分化される運命に見舞われましたが、ロマネ・コンティの葡萄園を分割しようとするオーナーは一度も現れませんでした。ローマ時代から続く単独所有畑(モノポール)としての名声は、こうして連綿と守られてきました。革命も戦争も、その名声に髪ひとすじの傷も負わせられなかったのです。
ここの蔵に一歩足を踏み入れると、そこには伝統が、神話の輝きをまとって息づいている
ロマネ・コンティの葡萄園では、古いことがそのまま美徳となります。たとえば畑では、1945年に至るまで、つぎ木をしないままフィロキセラの虫害に対処してきました。ロマネ・コンティの畑に植えられている葡萄の樹は、伝統的に取り木のみで更新されてきたものばかりです。つまり、コンティ公爵時代に植わっていた葡萄の直系の子孫なのです。残念ながら戦争で殺虫剤が手に入らなくなった1945年の末に、すべての株は、引き抜かなければなりませんでした。しかしドメーヌでは、その前に、ラ・ターシュの畑をロマネ・コンティの畑からとったつぎ穂を使って更新し、そのラ・ターシュの畑からのつぎ穂で、再びロマネ・コンティの畑を更新するという方法をとりました。つまりコンティ公時代からの直系の子孫のみ、という伝統は今も変わらずに残されているのです。苗木を専門の業者から買うのが一般的な今日では、この方法は極めて珍しいものです。
もうひとつ、畑で特筆すべきはその収量の少なさです。ヴォーヌ・ロマネ村のグラン・クリュの法的生産量の上限は、1haあたり35hlですが、ロマネ・コンティでは優れた年でも30hlほど、悪い年には10hl程度まで減らすことさえあります。こうして生産量を制限することで、品質の高さを守っているのです。このために若木や老樹では、クロシェ整枝と呼ばれる、極めて芽数の少ない独特の整枝法も多用されています。もちろん、肥料も極めて少なめに与えられます。肥料の大部分は剪定の際に切りとられた枝と発酵後の絞り粕を元にした堆肥です。つまり「畑からとれたものは畑に返す」のです。
醸造もまた、極めて伝統的な方法で行われます。発酵には専用の木桶が使用されます。色の濃い、構成のしっかりした長寿な酒を生み出すために、葡萄は軽くカットするだけで、破砕・除梗せずそのまま槽に入れられます。発酵温度は32〜33℃に保ち、発酵および醸しはできるだけゆるやかに長めに行うようにしています。樽熟にはトロンセ産のオークの新樽を100%使用し、熟成期間は18〜24ヶ月。この間に1回だけオリ引きをし、最後に卵白を使って清澄します。こうして瓶詰めされたワインは、数十年にわたるであろうその生涯の物語をつむぎ出すために、それぞれの門出を飾るのです。
ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ
名声を追う必要のない、ただひとつの醸造元
ドメーヌ・の現当主オベール・ド・ヴィレーヌの家系が、ロマネ・コンティの所有権を得たのは、1869年。以来、同家は、ロマネ・コンティのオーナーとしてのみでなく、リシュブール、グラン・エシェゾー、エシェゾーの一部を所有する、小さいながらもブルゴーニュ最高の醸造家として名声を博してきました。以後、1933年にはラ・ターシュのすべてを買い取り、46年にはロマネ・サン・ヴィヴァンの耕作権の一部を取得(88年に畑を買収)、63年にモンラッシェの数うねを買収と、「王冠」ロマネ・コンティの周囲を飾る数々の宝石を入手、原石に磨きをかけ、一層の輝きをそえてきました。この間、1942年にはドメーヌを会社組織にし、正式名称を「ソシエテ・シヴィル・デュ・ドメーヌ・ド・ラ・ロマネ・コンティ」としました。今日、ドメーヌでは、プルミエ・クリュの畑も所有していますが、ドメーヌ元詰めものとしては、グラン・クリュしかリリースしていません。
※1999年から特別な年に、特別なワイン「ヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ キュヴェ・デュヴォー・ブロシェ」のリリースを始めました。